カテゴリ:FAMILY( 89 )
ご連絡
火曜日(12/11)に、仙台に住む母方の祖父が亡くなりました。
ついては、今年も新年のご挨拶は失礼させていただきます。
 (※時期も時期なので喪中はがきの出状も見合わせたく、よろしくお願い致します。)
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by cheeriot | 2012-12-16 11:44 | FAMILY
「大きな歓声が聞こえる 僕らはひとりじゃない」
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仙台、光のページェント
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by cheeriot | 2012-12-14 23:59 | FAMILY
葬儀も違う -仙台と関東・関西
祖父が亡くなった後、色々困ったこと、戸惑ったことがあった。

1.まず宗派が分からない。
亡くなると葬儀日程を決めないといけないのだが、そのためにはお坊さんのスケジュール確保が必須となる。が、なんと、ウチの家族は誰もウチの宗派を知らなかった;;
祖父の実家は真言宗の豊山派なのだが、祖父母(というか祖母?)が買った墓地のある寺は曹洞宗。
祖母の実家が曹洞宗だから?という説も出たのだが、通夜後に確認すると、そうでもなかったらしい。
「なんで曹洞宗のお寺にお墓を買ったの?」と祖母に聞くと、「そこがウチの近所で、住職の奥さんがいい人だから。」(※祖母も軽度のアルツハイマーなのでアテにならないことがこの時点で発覚)。でもその住職夫婦は年老いて、子供もいなかったので故郷の山形へ帰ってしまっており、今では赤の他人がその寺を継いでいるという。
祖父母がいつもお世話になっている近所の奥さんは、「間違った宗派でお墓に入れると、移す時が大変なんだよ」と言い出すし、さて困った。
仕方ないので、熟考(?)の末、喪主を務める叔父が「曹洞宗にする」と決断(そんなんでいいのか!)。
こうしてなんとかお坊さんが決まり、スケジュールが決まった。
(通夜・葬儀・告別式では親戚一同、初めて聞く曹洞宗の読経&ドラみたいな楽器の音に、何が始まるんだとびくびくしていた。)

2.曹洞宗
曹洞宗にするとは決まったものの、我が家は誰も曹洞宗に関する知見がない。
何でも知ってる近所の奥さんのおかげで、何とか準備を始めたのだけど、曹洞宗って実は一番儀式類が難しい&こう書くと身も蓋もないけど“面倒な”宗派だったらしい。

四十九日まで家に設置する祭壇の作り方も決まっていて
一番上段にお骨や花を置き、
お供えは、右側に自然のものを、左側に加工したものを置く。
(例:右側二段目に林檎、三段目にご飯、水を置く。林檎はダメになる前に皆で食べるのが供養。
  林檎の代わりに故人が好きだった自然のものを置くのも良い。
  左側の二段目は昔は落雁を置いたが、最近はお砂糖の加工品を置いてるから、
  49日まで持つ。
  その他、三段目にお団子やお茶を置く。)
お団子は、初七日まで、毎朝長男のお嫁さんが7つずつ作り、白い器に追加していく。
ご飯は山盛りにし、割りばしを底につくまで2本突き刺す(交換しなくて良い)。
水とお茶は毎日替えるのだけど、お茶は、お湯にお茶の葉を摘まんで入れるのみ。
なお、このご飯とお箸、お団子は、七日目に庭に埋めることとなっている。

祖父のお棺の上には、5がつかない硬貨(但し1円玉を除く…アルミは焼くと骨に付くから…ので、10円玉か100円玉を入れる)を入れたずた袋を置く。これは六紋銭と同じ意味だそうだ。また、サランラップにコメ、味噌、塩を別々に少しづつ包み(道中の食事であるおにぎりの材料)、これもずだ袋に入れるという。

はー、難しいねぇ…。

3.法要スケジュール
一連の式の準備をしている最中に、しばしば出てくる、「次の法要は100ヶ日です」の言葉。
皆、よく分からなかったのだけど、実は、仙台では初七日(これは関西でも、斎場から戻った後にまとめてやることが一般的)や四十九日の法要を営まないんだって。
さらにいうと、仙台では、葬儀は斎場(火葬場)で遺体を骨にした後にやるのが当たり前らしく、今回(たまたま斎場の都合で)葬儀→斎場の順になったのが、参列者にとってはだいぶ違和感があったんだそうです。(←喪主である叔父夫婦(東京在住)&関西人にとってはこの順番が当たり前なので、喪主側は、誰も参列者が違和感を抱いていることすら気付いてなかった。)

4.線香守
これは311の後、余震が頻発しており、万が一のことがあると怖いので、仙台ではやらないのが一般的になったのだそうです。確かにねぇ。

5.告別式後の会食
一番驚いたのがこれ。
関東・関西では、葬儀・初七日法要後、参列者とお膳を囲み、故人の話をしながらゆっくり食事をし、その費用は喪主側で持つのが当たり前なのだけど、仙台(なのか仙台・福島辺りなのかは不明)では、参列者各自が、自分の費用を自分で払うのが当たり前なのだそうです。
つまり告別式前の受付では普通に「御霊前」と書いた香典袋を渡し、会食前の受付で今度は「御仏前」と書いた香典袋を渡すことになるの!(なので、会食までお呼ばれした場合は、この2つの香典袋を用意して持っていかないと失礼に当たるそう)。

会食前に、セレモニーホールの人から何度も「受付を置いてほしい」と言われたのだけど、なんせ喪主側が何を言われているのか全く理解できておらず、またセレモニーホールの担当者も仙台の風習しか知らないのか、私達が何を分かってないのかが分かっておらず、お互い「?」となってました。
結局、喪主側が、よく分かっていないまま「会食費は喪主側持ちで」というのを通し、御仏前は貰わないことに。

が、ここで次の驚きが。
会食が始まったのに、お重の包みを開けて食べているのは我々喪主側の人間のみ。参列者はそこで出された温かい物(汁物、ご飯)にしか手を付けず、誰もお重を開かないの。
これも「お腹がいっぱいなのかなぁ」(斎場で待ち時間に麺を食べたから)と勝手に推測してたのだけど、実は仙台では、お重はそのまま持ち帰って家で家族と故人の話をしながら食べるのが一般なのだそうです。

その他、マイ数珠がこっちでは必須ではなかった(関西では、小さい子供でもマイ数珠を持ってるのが当然(だと思う))等々細かい違いもありました。

でもこういう習慣の違いが分かったのは、実は一連の儀式が全て終わった後に、仙台に住む母の大親友と、祖母にとっての妹みたいな存在の人に聞いてのこと(二人ともそれが当たり前と思ってたので、事前に我々に説明する必要があると思ってなかったらしい)。


葬儀風習の違いっておそろしい。
特に、香典袋の2枚持ちは、その場でどうこう出来るものでないだけに、今後、東北近辺での葬儀の時は気を付けないと。

…でも実は喪主側一同の一番の心配は、祖父が迷わず旅立てたのかということ。なんせ、多分、祖父本人も自分が曹洞宗だと思ってないし、曹洞宗がどういうものかも分かってないので。
祖父が素敵な人だったことは皆よく分かってるから、神様仏様も分かってるはず、宗派の違いなんて上辺のものでしかないからきっと大丈夫、と結論付けた子孫一同をとーたん、どうか許してね。
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by cheeriot | 2012-12-13 23:59 | FAMILY
別れの時
祖父の通夜、葬儀・告別式では私も初めて会う親族に沢山会い、ちょうど良い機会なので祖父方の家系図を作った。
祖父は南相馬の生まれなので、祖父方の親族には311で被災した方が多く(浪江町など)、本当に色々な話を伺った。
その話はちょっとここでは書けないので、もう一つの話題だった昔のことを書くと、昭和42年頃までは東北では農家は当たり前のように養蚕をしていたのだそうだ。農家はどうしても収穫まで現金収入がないので、1ヶ月位で繭を作ってくれる蚕が欠かせなかったらしい。特に春の繭は高く売れたので、田植えに忙しい時でも必ず沢山飼っていた。蚕が桑の葉をカリカリ食べる音は結構うるさかったそうだが、「繭を作る前の蚕は透き通るようで、何度見ても本当に美しいと思った」らしく、その場にいた高齢者は皆、頷いていた。
1つの繭から20gぐらいの生糸が取れるのが一般的だったが、専門にやる人は50gぐらい取っていたそうで、祖父の長姉の家でも養蚕室を家の2階に設けていた、といった昔話で皆、盛り上がっていた。

祖父は91歳で、病院での大往生だった。
遺体も綺麗にしてもらえ(湯棺をしていただいた)、骨も年を考えると信じられないくらい綺麗に残っていた。
これは311を経験した方々にとってはとてもラッキーなことであり、一連の儀式があまり湿っぽいものにならなかったのが印象的だった。
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by cheeriot | 2012-12-13 23:58 | FAMILY
祖父のこと
祖父が自分のことを語っているのを、実はあまり聞いたことがない(そう言うと、周りに同調者が結構いるので、昔の日本の男性はそういうものだったのかもしれない)。
よって以下は、断定口調で書かれているものも含め、全て家族・親族からの伝聞による。

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祖父は1921年(大正10年)に、福島県の南相馬(原ノ町)で女2人・男5人の7人兄弟*の6番目として生まれた。
 (*実は、7人兄弟であることが分かったのも、葬儀の際の母の従兄との会話のおかげであり、それまでは10人兄弟説、7人兄弟説、6人兄弟説の争いがあった。)
実家は、父親が村の収入役として毎日紋付き袴の正装で出かけるような裕福な家だったそうだが、ちょうどその頃、火事で焼失。祖父が生まれたのは馬小屋だった。
その頃から家は落ち目になり、さらには代替わりで長男が跡を継いだことで、五男である祖父は「神童」と呼ばれるほど優秀だったそうだが、小学校しか行けず、それをずっと悔しく思っていた(三男までは大学まで行かせてもらえた)。しかも農繁期は農作業に駆り出されて学校に行けなかったことから、農業を嫌いぬいており、「農業では飯は食わん!」と言い続けていたそうだ(リタイア後の祖父が庭で作っていた野菜を収穫するのを私は楽しみにしており、祖父のそんな思いは知らなかった)。

小学校卒業後、国鉄に入社したが、兵役で大東亜戦争に出征。陸軍の通信技師として最初は満州へ、次いで南方諸島(シンガポール周辺)を行き来する生活を送った(行き先は軍事機密だったそうだ)。
この間、乗っていた船が爆撃され、一昼夜以上、海を漂流したり、一斉射撃に遭い命からがら逃げまどう(逃げる際にガラスで切った傷が終生顎に残った)等、だいぶ危ないめにも遭っていたらしい。
終戦後も生死は不明で、昭和22年頃になって祖父が突然帰還した時には家族全員、本当に驚き、ほっとしたそうだ(ちなみに祖父の兄弟は、3男と妹も満州からの引揚者だと聞くので、戦時中、家族はバラバラだったのだろうと思われる)。
複員後も、戦地でかかったマラリアが発病し、一年間は治療&湯治(両親が頑張って連れて行ってくれたらしい)に明け暮れた。その後も随分苦しめられたようで、「小さい頃、祖父がマラリアで苦しむ姿をよく見て覚えている」と母も言う。

しかし祖父は頑張った(多分、誰もが祖父のことを「努力家」というのはこの頃の印象が強いのだと思う)。
国鉄では、安全管理マニュアルを作って国鉄総裁賞を受賞した(当時の国鉄マンは全員、この安全管理マニュアルを学んだそうだ)他、200人の部下を持つ管理職として国鉄の労働組合と対峙する等、大変な時代を乗り切った。祖母によると、祖父は背も低く、厳しい上司でもあったことから、時々組合員の若いのに囲まれ、蹴られた足首を真っ黒に腫れあがらせて帰宅していたそうだ。

でもある時、その“若いの”の一人が深夜に事故で病院へ運ばれ、祖父がすぐタクシーで駆けつけたことに、“若いの”の父親が感じ入り「こんな上司は他にいない」と息子を諭したそうで、以後、その息子が祖父のシンパになる、というようなこともあったらしい。
こういった美談(?)もある反面、若かりし頃の祖父には、大の釣り好きだったのに、上司が釣りを始めた途端、“おべっか使い”と思われるのが嫌で釣りを一切止める、土曜の午後は同僚や部下3名と予備1名を自宅に連れ帰って日曜の午後まで徹マンをし、よくカモられる&家族にうるさがられるといった話もあり、好々爺・穏やかといったイメージしかない老年期の祖父からは想像もつかない“やんちゃ”な面もあったようだ。
 ↓は、マージャン中の祖父(左端)
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昭和21年に祖母と結婚した際も、元々の約束では、婿養子に入る予定だったのだが、義母とソリが合わず、家を飛び出してしまったらしい。でもそのおかげで、後に義父母が経営していた料亭が潰れた時にも、一家は路頭に迷わずに済んだというから、人生、何が良いかは分からないもんである。
ちなみにその義母は、その後も祖父の世話にはなるまいと意地(?)を張り続け、一人で自分は鰻が大嫌いだったにもかかわらず、テイクアウト専門の鰻屋で生計をたて、生を全うしたという。

定年退職直前に家を買った祖父母はそれまでの官舎暮らしにピリオドを打つ。
退職後は保険の代理店業を始めたのだが、どうも近所に住む人達に地震保険を勧めていたらしく、近所に住む弔問客が「あの時の保険のおかげで、311で受けた被害を直せた」と感謝してくれていた。
手先も器用で、私の弟が将棋にハマった時には、自分で手作りした将棋盤と駒(下記写真)を弟に送ってきた。改めて見るとそれはなかなかの出来栄えで、私ももういい大人だけど、どんなに頑張っても同じレベルのものを作れる気はしない。
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祖父は、小さい頃からずーっと私に会うたびに「Cheeriot、笑顔が大事なんだよ。」と言っていた。
祖父はいい笑顔をする人で、その笑顔には、一度見ると、また見たくなるという魔力がある。
老人性の痴呆が進み、私達のことが分からなくなった後も、たまに見せてくれるその笑顔見たさに私たちが何度祖父を笑わせようとしたことか。
でも残念ながらここ数年はその笑顔が見られる回数も少なくなっていた。

痴呆になると、「(意識が)一番幸せだった時代に戻る」といわれることがある。
祖父が当初戻ったのは、60歳ぐらいだったようだ(コチラコチラ参照)。
病状が進んで、母や叔父のことが分からなくなった後も、祖母のことだけは長いこと分かっていて、祖母がどこかに行こうとすると、「お母さん、どこ行くの?」と必ず聞いていた。
祖父が亡くなった時、91歳の大往生だったこと、ここを乗り切れてもその後の生活が決して祖父にとって快適なものとは言い難かったこと(麻痺が残るので)、苦しまずに逝けたこと、家族の多くのメンバーが看送れた/または最期の別れが出来たこと、それらが相俟り、祖父の死は私たち家族にとっては受け入れられるものだったのだが、祖母の嘆きは深く、何人もの人が「お父さんはもう何年もしんどかったのに、お母さんを一人に出来なくてずっと頑張ってたんだよ。もう休ませてあげて」と祖母を慰めていた。
結婚して64年。本当に仲の良い夫婦だった。
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by cheeriot | 2012-12-11 23:59 | FAMILY
祖父のこと
祖父が自分のことを語っているのを、実はあまり聞いたことがない(そう言うと、周りに同調者が結構いるので、昔の日本の男性はそういうものだったのかもしれない)。
よって以下は、断定口調で書かれているものも含め、全て家族・親族からの伝聞による。

祖父は1921年(大正10年)に、福島県の南相馬(原ノ町)で女2人・男5人の7人兄弟*の6番目として生まれた。
 (*実は、7人兄弟であることが分かったのも、葬儀の際の母の従兄との会話のおかげであり、それまでは10人兄弟説、7人兄弟説、6人兄弟説の争いがあった。)
 ↓ 写真は、裏に「2」と書いてあるので、2歳の祖父か?
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実家は、父親が村の収入役として毎日紋付き袴の正装で出かけるような裕福な家だったそうだが、ちょうどその頃、火事で焼失しており、祖父が生まれたのは馬小屋だった。
その頃から家は落ち目になり、さらには代替わりで長男が跡を継いだことで、五男である祖父は「神童」と呼ばれるほど優秀だったそうだが、小学校しか行けず、それをずっと悔しく思っていた(三男までは大学まで行かせてもらえた)。しかも農繁期は農作業に駆り出されて学校に行けなかったことから、農業を嫌いぬいており、「農業では飯は食わん!」と言い続けていたそうだ(リタイア後の祖父が庭で作っていた野菜を収穫するのを私は楽しみにしており、祖父のそんな思いは知らなかった)。

小学校卒業後、国鉄に入社したが、兵役で大東亜戦争に出征。陸軍の通信技師として最初は満州へ、次いで南方諸島(シンガポール周辺)を行き来する生活を送った(行き先は軍事機密だったそうだ)。
この間、乗っていた船が爆撃され、一昼夜以上、海を漂流したり、一斉射撃に遭い命からがら逃げまどう(逃げる際にガラスで切った傷が終生顎に残った)等、だいぶ危ないめにも遭ったらしい。
終戦後も生死は不明で、昭和22年頃になって祖父が突然帰還した時には家族全員、本当に驚き、ほっとしたそうだ(ちなみに祖父の兄弟は、3男と妹も満州からの引揚者だと聞くので、戦時中、家族はバラバラだったのだろうと思われる)。
複員後も、戦地でかかったマラリアが発病し、一年間は治療&湯治(両親が頑張って連れて行ってくれたらしい)に明け暮れた。その後も随分苦しめられたようで、「小さい頃、父がマラリアで苦しんでいた姿を見て覚えている」と母も言う。

しかし祖父は頑張った(誰もが祖父のことを「努力家」というのは、多分この頃の印象が強いのだと思う)。
国鉄では、安全管理マニュアルを作って国鉄総裁賞を受賞した(当時の国鉄マンは全員、この安全管理マニュアルを学んだそうだ)他、200人の部下を持つ管理職として国鉄の労働組合と対峙する等、大変な時代を乗り切った。祖母によると、祖父は背も低く、厳しい上司でもあったことから、時々組合員の若いのに囲まれ、蹴られた足首を真っ黒に腫れあがらせて帰宅していたそうだ。

でもある時、その“若いの”の一人が深夜に事故で病院へ運ばれ、祖父がすぐタクシーで駆けつけたことに、“若いの”の父親が感じ入り「こんな上司は他にいない」と息子を諭したそうで、以後、その息子が祖父のシンパになる、というようなこともあったらしい。
こういった美談(?)もある反面、若かりし頃の祖父には、大の釣り好きだったのに、上司が釣りを始めた途端、“おべっか使い”と思われるのが嫌で釣りを一切止める、土曜の午後は同僚や部下3名と予備1名を自宅に連れ帰って日曜の午後まで徹マンをし、よくカモられる&家族にうるさがられるといった話もあり、好々爺・穏やかといったイメージしかない老年期の祖父からは想像もつかない“やんちゃ”な面もあったようだ。
 ↓麻雀中の祖父(左端)
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昭和21年に祖母と結婚した際も、元々の約束では、婿養子に入る予定だったのだが、義母とソリが合わず、家を飛び出してしまったらしい。でもそのおかげで、後に義父母が経営していた料亭が潰れた時にも、一家は路頭に迷わずに済んだというから、人生、何が良いかは分からないもんである。
ちなみにその義母は、その後も祖父の世話にはなるまいと意地(?)を張り続け、一人で自分は鰻が大嫌いだったにもかかわらず、テイクアウト専門の鰻屋で生計をたて、生を全うしたという。

定年退職直前に家を買った祖父母はそれまでの官舎暮らしにピリオドを打つ。
退職後は保険の代理店業を始めたのだが、どうも近所に住む人達に地震保険を勧めていたらしく、近所に住む弔問客が「あの時の保険のおかげで、311で受けた被害を直せた」と感謝してくれていた。
手先も器用で、私の弟が将棋にハマった時には、自分で手作りした将棋盤と駒(下記写真)を弟に送ってきた。改めて見るとそれはなかなかの出来栄えで、私ももういい大人だけど、どんなに頑張っても同じレベルのものを作れる気がしない。
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祖父は、私に会うたびに「Cheeriot、笑顔が大事なんだよ。」といつも言っていた。
祖父はいい笑顔をする人で、その笑顔には、一度見ると、また見たくなるという魔力がある。老人性の痴呆が進み、私達のことが分からなくなった後も、たまに見せてくれるその笑顔見たさに私たちが何度祖父を笑わせようとしたことか。
でも残念ながらここ数年はその笑顔が見られる回数も少なくなっていた。

痴呆になると、「(意識が)一番幸せだった時代に戻る」といわれることがある。
祖父が当初戻ったのは、60歳ぐらいだったようだ(コチラコチラ参照)。病状が進んで、母や叔父のことが分からなくなった後も、祖母のことだけは長いこと分かっていて、祖母がどこかに行こうとすると、「お母さん、どこ行くの?」と必ず聞いていた。
祖父が亡くなった時、91歳の大往生だったこと、ここを乗り切れてもその後の生活が決して祖父にとって快適なものとは言い難かったこと(麻痺が残るので)、苦しまずに逝けたこと、家族の多くのメンバーが看送れた/または最期の別れが出来たこと、それらが相俟り、祖父の死は私たち家族にとっては受け入れられるものだったのだが、祖母の嘆きは深く、何人もの人が「お父さんはもう何年もしんどかったのに、お母さんを一人に出来なくてずっと頑張ってたんだよ。もう休ませてあげて」と祖母を慰めていた。
結婚して64年。本当に仲の良い夫婦だった。
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by cheeriot | 2012-12-11 23:59 | FAMILY
祖父、逝く
朝の診断で、午後イチに祖父の口から喉に通している気管を抜くことになった。
気管とは気道を確保するためのもので、それが入っていると息をしやすいのだが、入れてる間中、胸に入った先端バルーンにより他の器官が圧迫され続けるほか、多かれ少なかれ炎症が発生し、万が一その菌が肺にいった場合、病状が悪化するというデメリットがあるため、最長でも1週間ぐらいしか入れておけないものらしい。
が、抜くと、気道の確保が出来なくなり、息が出来なくなる可能性や、舌が詰まって窒息死する危険性があるので、抜き時が難しいのだそうだ。
このため、抜いた後に自力で呼吸が出来なくなった場合に、再度、気管を通すかどうかを決めるよう家族は事前に求められる。
気管を抜いた後どうなるかは患者の生きる力次第で、うまくいくと声を聞ける可能性もあるのだそうだ。いずれにしても今日の午後から夜にかけてがヤマとなる。

午後になり、しかし予定通りにコトは進まなかった。
看護婦さん達が手を尽くしてくれたにも関わらず熱は下がらず、祖父の心臓は弱まりつつあった。気管を抜くなんてことが出来る状況でないことは、素人目にも分かる。
血圧の上が60を切り、尿が出なくなると良くない傾向だそうなのだが、祖父は頑張り、一進一退を繰り返した。気力というものがまだ残っているのかどうかは正直、分からなかったが、少なくとも体力はとてもあったのだと思う。

この状態がどれだけ続くか分からず、また、私も明日の夜には一旦、東京へ帰る必要がある(たまたま今週は火曜日に代休を貰っていたので、急遽今日(月曜)も休みを貰って仙台に居続けることが出来ている)ので、明日以降の看護を担う叔父や母に体力を維持してもらうべく、今晩も私が病院に泊まることになった。

翌12日に入り、夜中1時過ぎの診察の際、主治医の先生は「これだけ点滴を打って水分を補給しているのに尿が出てないということは、身体の他の器官に水分が逃げているということだ。瞼が閉じたのも、閉じたというよりはむくんでいるからだと思う。覚悟してほしい。朝を迎えることは出来ないかもしれない」と言った。苦しむことはないと思う、との言葉にそうあってほしいと思った。
母達に先生の言葉をメールしたら、まだ起きていた祖母や母、叔母達が飛んで来た(病院は祖父母の家から近い)。

夜中3時の診察の時、先生が「もってあと数時間なので、効いていない点滴を外して、顔のむくみを防いであげる方が良いかもしれない」と助言をくれ(医師に出来ることはもうない、ということだ)、私たちもそれに同意し、点滴が外された。

それは不思議な時間だった。
今まさに逝かんとする祖父を大の大人が7人で囲み、「その時」が来るのを待っている。
皆、だいぶ疲れてフラフラな中、それでも祖父を見送ろうという気力だけでその場にいる感じといえば伝わるだろうか。

そんな私達を横目に、祖父の呼吸はどんどん浅くなり、血圧は低くなっていった。
先生が「いよいよです。皆さん、そばにいてあげてください」と言って去った5分後の8時29分、祖父は眠るように息を引き取った。それはすぐ目の前にいる私達ですら、よく分からなかったほど静かな最期だった。
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by cheeriot | 2012-12-11 08:29 | FAMILY
脳死?
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福島あたりから降り出した雪は、仙台に着く頃にはひどくなっていた。
祖父は心臓マッサージにより、心停止から奇跡的に呼吸機能を回復していた、どころか、心臓マッサージによっても肋骨が全く損なわれておらず、医師や看護師達を驚かせていた。

そもそも祖父は、熱が出ていたので、肺炎にならないようにとデイサービスの方が念のため病院に運び込んでくれたのだが、そこで肺炎と脳梗塞を起こしたらしい。
今回の心停止は、肺炎ではなく脳梗塞が原因だそうで、肺炎の熱は一週間程度で下がるだろうが、梗塞による麻痺等の症状は残り、これまでのように月の2/3を施設で、1/3を家で祖母と暮らすといった生活を送ることはもはや出来ないだろう、というのが医師の診断だった。
実際、祖父の目は開きっぱなしで、これは顔面麻痺によるものと思われた。

仙台では12月にここまで雪が積もるのは珍しい。

祖父の容体はそれなりに落ち着いていたので、この夜は一晩、私が一緒に過ごしたのだけど、その間の看護師さん達の働きには感謝の言葉しかない。
(祖父が比較的ラクに息を出来ていたのも、高熱が一時的にしても下がったのも、夜中に何度も看護師さんが来てくれ、薬を入れてくれたり、痰を取ってくれたり、凍傷にならないよう気をつけながら、氷枕や身体を冷すための氷を頻繁に交換し続けてくれたおかげ以外の何物でもない。)
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by cheeriot | 2012-12-10 22:59 | FAMILY
コトのはじまり
夜、突然母が「仙台の祖父が病院に運ばれたのだけど、(東京に住む)叔父と連絡が取れない。携帯のメアド知らん?」と電話してき(←叔父は乗った電車が人身事故で止まり、缶詰めになっていた)、次いで病院に付き添っている福島の叔母から「祖父、脳死」のメールが届いた。
ことの深刻さに日本各地で、家族、青ざめる。
私も明日朝、仙台へ向かいます。
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by cheeriot | 2012-12-08 23:59 | FAMILY
congratulations!
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大曲の花火大会にも一緒に行った幼馴染みのJちゃんが、フランスでフランス人の彼と挙式!
おめでとうございます!!
末永くお幸せに♥
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by cheeriot | 2012-09-29 23:58 | FAMILY



興奮のあまり、ただいまタイトル変更中
by cheeriot
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