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祖父のこと
祖父が自分のことを語っているのを、実はあまり聞いたことがない(そう言うと、周りに同調者が結構いるので、昔の日本の男性はそういうものだったのかもしれない)。
よって以下は、断定口調で書かれているものも含め、全て家族・親族からの伝聞による。

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祖父は1921年(大正10年)に、福島県の南相馬(原ノ町)で女2人・男5人の7人兄弟*の6番目として生まれた。
 (*実は、7人兄弟であることが分かったのも、葬儀の際の母の従兄との会話のおかげであり、それまでは10人兄弟説、7人兄弟説、6人兄弟説の争いがあった。)
実家は、父親が村の収入役として毎日紋付き袴の正装で出かけるような裕福な家だったそうだが、ちょうどその頃、火事で焼失。祖父が生まれたのは馬小屋だった。
その頃から家は落ち目になり、さらには代替わりで長男が跡を継いだことで、五男である祖父は「神童」と呼ばれるほど優秀だったそうだが、小学校しか行けず、それをずっと悔しく思っていた(三男までは大学まで行かせてもらえた)。しかも農繁期は農作業に駆り出されて学校に行けなかったことから、農業を嫌いぬいており、「農業では飯は食わん!」と言い続けていたそうだ(リタイア後の祖父が庭で作っていた野菜を収穫するのを私は楽しみにしており、祖父のそんな思いは知らなかった)。

小学校卒業後、国鉄に入社したが、兵役で大東亜戦争に出征。陸軍の通信技師として最初は満州へ、次いで南方諸島(シンガポール周辺)を行き来する生活を送った(行き先は軍事機密だったそうだ)。
この間、乗っていた船が爆撃され、一昼夜以上、海を漂流したり、一斉射撃に遭い命からがら逃げまどう(逃げる際にガラスで切った傷が終生顎に残った)等、だいぶ危ないめにも遭っていたらしい。
終戦後も生死は不明で、昭和22年頃になって祖父が突然帰還した時には家族全員、本当に驚き、ほっとしたそうだ(ちなみに祖父の兄弟は、3男と妹も満州からの引揚者だと聞くので、戦時中、家族はバラバラだったのだろうと思われる)。
複員後も、戦地でかかったマラリアが発病し、一年間は治療&湯治(両親が頑張って連れて行ってくれたらしい)に明け暮れた。その後も随分苦しめられたようで、「小さい頃、祖父がマラリアで苦しむ姿をよく見て覚えている」と母も言う。

しかし祖父は頑張った(多分、誰もが祖父のことを「努力家」というのはこの頃の印象が強いのだと思う)。
国鉄では、安全管理マニュアルを作って国鉄総裁賞を受賞した(当時の国鉄マンは全員、この安全管理マニュアルを学んだそうだ)他、200人の部下を持つ管理職として国鉄の労働組合と対峙する等、大変な時代を乗り切った。祖母によると、祖父は背も低く、厳しい上司でもあったことから、時々組合員の若いのに囲まれ、蹴られた足首を真っ黒に腫れあがらせて帰宅していたそうだ。

でもある時、その“若いの”の一人が深夜に事故で病院へ運ばれ、祖父がすぐタクシーで駆けつけたことに、“若いの”の父親が感じ入り「こんな上司は他にいない」と息子を諭したそうで、以後、その息子が祖父のシンパになる、というようなこともあったらしい。
こういった美談(?)もある反面、若かりし頃の祖父には、大の釣り好きだったのに、上司が釣りを始めた途端、“おべっか使い”と思われるのが嫌で釣りを一切止める、土曜の午後は同僚や部下3名と予備1名を自宅に連れ帰って日曜の午後まで徹マンをし、よくカモられる&家族にうるさがられるといった話もあり、好々爺・穏やかといったイメージしかない老年期の祖父からは想像もつかない“やんちゃ”な面もあったようだ。
 ↓は、マージャン中の祖父(左端)
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昭和21年に祖母と結婚した際も、元々の約束では、婿養子に入る予定だったのだが、義母とソリが合わず、家を飛び出してしまったらしい。でもそのおかげで、後に義父母が経営していた料亭が潰れた時にも、一家は路頭に迷わずに済んだというから、人生、何が良いかは分からないもんである。
ちなみにその義母は、その後も祖父の世話にはなるまいと意地(?)を張り続け、一人で自分は鰻が大嫌いだったにもかかわらず、テイクアウト専門の鰻屋で生計をたて、生を全うしたという。

定年退職直前に家を買った祖父母はそれまでの官舎暮らしにピリオドを打つ。
退職後は保険の代理店業を始めたのだが、どうも近所に住む人達に地震保険を勧めていたらしく、近所に住む弔問客が「あの時の保険のおかげで、311で受けた被害を直せた」と感謝してくれていた。
手先も器用で、私の弟が将棋にハマった時には、自分で手作りした将棋盤と駒(下記写真)を弟に送ってきた。改めて見るとそれはなかなかの出来栄えで、私ももういい大人だけど、どんなに頑張っても同じレベルのものを作れる気はしない。
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祖父は、小さい頃からずーっと私に会うたびに「Cheeriot、笑顔が大事なんだよ。」と言っていた。
祖父はいい笑顔をする人で、その笑顔には、一度見ると、また見たくなるという魔力がある。
老人性の痴呆が進み、私達のことが分からなくなった後も、たまに見せてくれるその笑顔見たさに私たちが何度祖父を笑わせようとしたことか。
でも残念ながらここ数年はその笑顔が見られる回数も少なくなっていた。

痴呆になると、「(意識が)一番幸せだった時代に戻る」といわれることがある。
祖父が当初戻ったのは、60歳ぐらいだったようだ(コチラコチラ参照)。
病状が進んで、母や叔父のことが分からなくなった後も、祖母のことだけは長いこと分かっていて、祖母がどこかに行こうとすると、「お母さん、どこ行くの?」と必ず聞いていた。
祖父が亡くなった時、91歳の大往生だったこと、ここを乗り切れてもその後の生活が決して祖父にとって快適なものとは言い難かったこと(麻痺が残るので)、苦しまずに逝けたこと、家族の多くのメンバーが看送れた/または最期の別れが出来たこと、それらが相俟り、祖父の死は私たち家族にとっては受け入れられるものだったのだが、祖母の嘆きは深く、何人もの人が「お父さんはもう何年もしんどかったのに、お母さんを一人に出来なくてずっと頑張ってたんだよ。もう休ませてあげて」と祖母を慰めていた。
結婚して64年。本当に仲の良い夫婦だった。
by cheeriot | 2012-12-11 23:59 | FAMILY
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