私が28歳になる直前まで一緒に住んでいた祖母が逝った。
若い頃は“べっぴんさん”として有名で、本人いわく“ミナミで私を知らない人はいなかった”(←あくまで本人談なのでガマンしてお付き合いください。今となっては真実を知るのは、脚本家の橋田壽賀子さんぐらいか)とか。曾祖父は「ウチの息子の嫁に、彼女を貰う!」とだいぶ前から家族に宣言していたそうで(祖父の弟談)、実際に縁談がまとまった時は大喜び。田んぼを売って得た金で、近所の人を呼んで三日三晩のどんちゃん騒ぎをしたらしい(※曾祖父も祖父母も酒は飲めないところがミソ。祖母はそんな無駄遣いして!と相当おかんむりだったらしい)。 この曾祖父という人もおもしろい人で、商才はあったものの競馬と盛り場が大好き。関東大震災の時に、材木を紀州から運んで一財産作ったまでは良かったのだけど、その後3年遊び倒し、帰阪した時には無一文。その後も、馬主になるわ(持ってた馬はことごとく勝てなかったらしい。1回だけ1千万程勝ったらしいけど、負けた額はその数十倍にのぼる)、百万単位の金を腹巻に入れ、あちこちの競馬場で掛け続けるわ(よって現在、私のダンナに「競馬の神様」と崇められている。が、負け続けた曾祖父を拝むのもどうかと私は思う)、で、父が言うには「借金取りがよく家に来、そのたびに“ないもんはない!その辺にある好きなもん持ってけ!!”と怒鳴っていた。死んだ時も、どこからどれだけ取り立てが来るか、家族はびくびくしていた。今はもうあんな豪快な人はおらんなぁ。」という状態だったらしい(そんな父親を反面教師としたのか、私の祖父は“超”が付くぐらい真面目な人だったとか)。 望まれて嫁に来た祖母は、曾祖父と曾祖母(こちらも元芸妓さんで、火鉢にキセルの似合う粋な人だった(父談))にとても可愛がられたらしい。当時としては珍しく、祖父は獣医の、祖母も薬剤師の資格を持っていたのだが、二人は曾祖父の営む材木屋で働いた。戦後の復興期という時機に加え、曾祖父の商才のおかげで、当時、店は相当繁盛したようだ。従業員全員で、出来たばかりの飛行機に乗って大阪から白浜(和歌山の南端にある温泉地なので、普通は車やバス・電車で行く程度の距離)へ慰安旅行に行ったとか、曾祖父が泉州の同業仲間3人と北海道で国鉄を借り切って旅行した、とか、某一流企業の社長が毎年家に新年の挨拶に来てくれていたとか、今となっては耳を疑う逸話が幾つもある。 そんな店の看板娘(?)として、目を瞑ってもらえていたのか、真相はよく分からないが、祖母は“美しくあること”にかなりのお金を費やしていた。動けなくなるまで週2回のエステ通いを欠かさず(その丹精の賜物か、亡くなった時の祖母の肌は皆が驚くぐらいに綺麗だった)、お誂えが大好きで、祖母が出入り業者に作らせた着物は、近所の人いわく「同じ柄の着物を作らせてほしいとお願いに行く人が何人もいたし自分も行った」ほど(残念ながら祖母はどこかのタイミングで着物を誰かにあげたようで、ほとんど残っていない)、同じく洋服は、祖母が着た何年も後になって、母がサイズを直してさらに何年も愛用できた程いい生地が使われた物だったらしい。50歳の時に生まれた初孫である私をはじめ全ての孫に生涯「おばあちゃん」と呼ばせず、60歳過ぎからはレオナールにハマり、「私が若い時は戦争中で、花柄なんて着れなかったから」と言ってどれだけ集めたことか。バーゲンも家族で一番よく行く人で、母や私が「お金ないし、バーゲンは行かんかった」と言うと、「私やったらお金なくても絶対行く!」と力強く言っていた。動けなくなってからも、お気に入りの綺麗な洋服を部屋に飾ってもらっては、眺めて楽しんでいた。 そんな祖母からすると、孫の私は身繕いに無頓着すぎると昔から不満たらたらで、最近も、見舞いに行くたびに「アンタ、またそんなナリして。髪型も似合ってへんわ。美容院行き。化粧もせんと…。スカートの一枚ぐらい買いぃや」と文句のオンパレード。1時間の面会時間中に毎回4、5回は怒られ、ついには同道してくれたダンナまで「アンタが何も言わないから、このコがこんななのよ。もっとちゃんとするよう言わなあかんで」と怒られる始末、さらには、別の日に見舞いに行った母にまで「もぅあのコは…」とグチったらしいが、母に「エステなんて私も行けん!」と切り返され、形勢不利とみたか、押し黙ったらしい(笑)。 とにかく祖母は動けなくなるまでは、カゼで寝込むことも滅多にないぐらい頑丈で、大の出好き、お琴・三味線・カメラといった趣味に没頭して家に帰って来ず、二人の息子が揃って「オヤジはかわいそうだった」というぐらい自由な人だった。口の悪さも相当で、起こした舌禍事件は数知れず。今でも母は一部の親戚に会うと、「あの時、アンタとこのお母さんにこぅ言われて…」と嫌味を言われるほど。祖母ほど良くも悪くも言論の自由を謳歌した人はいないだろう。 そんな祖母ではあったが、不思議と嫁である母の悪口を祖母の口から聞いたことは一度もなかった(by祖母の妹)そうだ。もちろん実際には、家でよく衝突してたけど、それとこれとは話が違う。母は1992年以来ずっと、最初は祖父の、次いで動けない祖母の介護を本当によくしていた(一緒に住んでの介護がいかに大変かは、実際にしばらくやったことがある人にしか分からないだろう。一週間に一度会いに行くというのは、日々の介護をしている人の苦労に比べると、何もしていないに等しい)ので、これを聞いた母は報われた気がしたのではないか。 容態が急変したのは昼過ぎだった。急報を受け、母が駆け付けた時には祖母の意識はもうなく(でも呼びかけたら手を握り返した気はするらしい)、父はどうしても抜けられない仕事で居合わせられなかったが、弟、叔父夫婦、義叔母の母上に看取られ、祖母は逝った。 実は、母はここ1ヵ月、カゼが治らず、病院に見舞いに行けていなかった(母のために書くが、こんなことは祖母の入院以来、これが初めてだった)。ようやく見舞いに行けたのが、死の前日で、その時祖母は、母が持参した、唯一の家族旅行(1996年に、香港に留学中の私に会いに来た)の写真を見ながら2時間半ほど元気に話し、同じく母が持参した、祖母の大好物の西瓜(その前日に父が買ってきたもので、両親いわく、2011年に食べた全西瓜の中で一番美味しいものだったそうだ)にパクついていたそうだ。なので、母は「昨日あんなに元気だったのに」という思いがなかなか消えなかったようである。葬儀に来た誰もが「母が来るのを待っていたのだろう」、と言った。 私はというと、仕事中に連絡を受け、東京から急ぎ戻った家で見た祖母の穏やかな死に顔に、苦しまずに逝けたことを知り、心からほっとした。 祖母から見ると、私と12歳下の従妹は、祖母の性格の異なる部分をそれぞれ受け継いだらしい。特に私は初孫・初の女の子(祖母には女の子がいなかったので)な上に、同居の孫だったので、祖母は本当に可愛がってくれ、長い時間を共に過ごした。結果、祖母の性格はかなり私に伝わったようだ。ダンナは「おばあちゃんには申し訳ないけど、おばあちゃんが病院で8年頑張ってくれたおかげで、生きてるうちに何度も話すことが出来た。おばあちゃんの話す時のクセや、イラッっとした時の雰囲気がcheeriotそっくりで、cheeriotの性格の“なんでこうなんだろう?”と思ってた部分の謎が解け、cheeriot理解が進んだ。だからこの8年はおばあちゃんにとったら堪らない時間だっただろうけど、自分にとっては価値ある8年だった」と言ってくれていた。 8年頑張ったおかげで、祖母はかわいい曾孫にも会うことが出来た。
by cheeriot
| 2011-04-11 23:59
| FAMILY
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